終わった人

人生終わった人が独り言を言うブログ

セルフベーシックインカム生活を始めて3か月目

月8万で生活を試みています。

家賃3万円、食費1.5万円、光熱費1万円、通信費0.5万円、その他雑費0.5万円、大型出費のための積み立てで1.5万円、計8万円です。

仕事を失ってしまったので、交通費はかからないです。そんな生活で3か月がたちました。

今日はそんな日々を振り返り感想を書きたいと思います。

なんとなくは生きていける

生活には十分です。本当にすべての贅沢を捨てればもっとコストはかからないでしょう。私にはちょっとの贅沢が入るくらいじゃないと精神的に持たず、8万円くらいが限界でした。積立の1.5万も賃貸の更新料や保険、実家への遠征で消えてしまいます。年に20万円程度の積み立てでは余裕はありません。本当に最低限生きるためのお金といった感じです。

豊かさへの飢えが出てきた

欲しいものが買えません。それどころか、必要な物が買えません。安物が逆にコスパが悪くなるケースも知ってはいますが、それを避けられない辛さがあります。

「あとちょっと稼いだら楽になるのに。」

こんなことを考えることが多くなりました。

自尊心を保つのが難しい

無職なところもありますが、惨めな気分にはなりました。働いていたころの生活水準がありますから、そこからはどうしても落ちます。そこが原因になっているとおもいますが。服も生活環境も思い通りにはいきません。自分で違うなと感じながらフラストレーションがたまっていきます。

思考が節約に占拠されている

貧困の罠の状態とそんなに変わらないのではないかと思っています。食べ物を買うにも、生活雑貨を買うにも節約が頭から離れません。かなりのコストが浪費されていると感じます。

まとめ

お金ほしいです。稼ぎたい。労働意欲はありますが、底辺労働にはかかわりあいたくないという葛藤で悩んでいます。新規で、少し稼げて自分の裁量を持てる商売を何とか開拓できないかといろいろ模索を始めました。

半年経過すれば、生活にも慣れてくるでしょう。そうなれば節約志向がルーチン化して効率化してくると思います。なんといっても定額が入ることが約束されてますから、その水準でノウハウが貯まってくれば楽になるだろうと予想しています。

もしかすると就職するかもしれないですが、まだ実験を続けようと思います。
労働意欲に関してはぜんぜんなくならないどころか、稼ぐことへの飢えが始まりました。

裁量をもって日々過ごせてるか

人間自由があるかは重要です。

会社でも、なんの裁量も無く、家庭でも自由が無い。これは思考停止を招き、人生を台無しにするんだなと、人生に意味を感じていない私は思います。

末っ子で、何をやるにも周りが勝手に動いてました。自分はタダ待っていたのです。楽といえば楽ですが、今思えば子供の頃から思考停止していたように思います。問題が起きたときにジッと待つことが解決方法でした。

社会人になってからもその性格は変わらず、指示待ち人間になっていました。いつの間にか都合よく動かされるようになり、自分の裁量はなにもありませんでした。考えない自分の話を聞く人は誰もいませんでした。薄っぺらいのでしょう。考えが。そして、不満が貯まりつつも手ごたえのない毎日に思考停止は進みます。

そして、現在になるのですが、私はからっぽです。何もありません。なにも成し遂げません。虚無です。それに気が付いて何もかも捨てて逃げました。

しかし、逃げた先も虚無です。これから死ぬまでに何かを発見できるんでしょうか。無いでしょうね。

消費を人生の楽しみにしない

物を買う、サービスを利用する。小さいころから当たり前にしていました。いつの間にか、なにか満たされないとき、何かを打開したいときに、消費する物、事を探すようになっていました。そして消費をするために仕事をする。そんな循環になってました。

無駄な循環に入ってはいないか

働くために消費して、消費する為に働く。そんな循環になっているように感じ始めました。どんどん投資をしてもっと働くのです。ここで得られた物は少しのお金とあまり意味のない経験。そして失ったものは時間。つまり人生です。

消費をするほど人生を無駄にしていたと気が付きました。

無駄だと思ってから物やサービスの見え方が変わった

消費は無駄なことに見えるようになりました。テレビではいらない物を煽って売ろうとしてきます。街に出れば、いらないモノを売ろうと必死に声を掛けてきます。物を手に取れば本当か嘘かわからない情報が書いてあり、価値があるかのように思わせようとしてきます。(実際にほとんどウソで勘違いを誘うものもあります。)そんな風に見えるようになりました。

物の価値を決めるのは自分

今思えば、自分になにが必要なのか理化しておらず、探していたように思います。そこに消費することが都合が良い人々の言葉で、消費することこそ素晴らしい人生なんだ思いこまされていたんではないかなと。

今はすべてを捨てて自分の人生を大事にするようになってから、自分に必要なものは自分の内側から出てくるようなそんな感じがします。それ以外はいらない。最低限でいいんです。周りが煽ってきても関係ないんです。

働いていたころに比べて、自分がしっかりした感じがしますね。いらないことをやめて、自分の人生を大事にしていきたいと思います。収入はないけど。

 

 

見栄を張るコスト

見栄、張ってますか?

社会で生活するうえで、人からどう見られるかは重要です。収入は信頼力で決まると言っても良いです。そのうえで、見栄を張って信頼できる人間かのようにふるまい、チャンスを得るということが重要になってきます。社会人であれば見栄を張ることにコストをかけることは十分にリターンを期待できます。

しかし、私にはもういらないんです。だって社会と縁を切りますからね。見栄張っても仕方ないんです。見栄を切るのをやめるだけでいろいろなコストを削減できます。

容姿に関するコスト

髪の毛はもうバリカンで十分です。ずっと坊主にしとけばいいです。いままでは年間2万円程度かかってましたが、それはカットできます。

洋服に関してもカットできます。下着はだらしなくてもいいですし、服も外行きが夏、春秋、冬のコートくらいが1つあればいいです。靴も1つ。普段は外に出ないのでボロボロの服をずっと着ればいいです。働いていたころに買っていた服だけで、もう一生行けるかもしれません。

人付き合いに関するコスト

社会人であれば、人付き合いが必要です。外食やイベントなど、その人と一緒にいっていろいろ話をして友好を深める。あなたは特別ですと接待をすることもあります。お金を得る縁を大切にするというわけです。友人とならSNSでなんてコスパの良い方法があると思いますが、より儲かるコミュニティを維持しようと思うと、儲かってますアピールをする必要があり、よりコストをかけることになります。が、これも社会と縁を切れば必要なくなります。

社会性を捨てれば見栄分のコストは不要

そう。いらないんです。ブランド品もいらないし、インスタ栄えする旅行をする必要もないんです。そんなものはいらなかったんですよ。初めから。

そして、私は自由になった。